「神様は良いものを与えてくださる」 創世記1~2章 

 

 キリスト教の信仰を簡潔にまとめた使徒信条は次の言葉で始まります -「私は、天と地を造られた、私たちの父なる神を信じます」 日本では八百万(やおよろず)の神がいると言われますが、クリスチャンはどんな神様を信じているのでしょうか?

 

1. 良いものを造られた神様

神様が天地を造られたと聖書にあります。ただ造られただけではありません。「非常に良い」ものを造られたと書かれています。(1:31)。私たちは、自然を通して神の素晴らしさを見ることができます。神様は、私たちに良いものを与えようとされる方です。目を上げて周りを見渡す時。神様が造られた良いものに気づくでしょう。

 

2. 父親のように私たちを大切にされる神様

神様は、人を園に「置かれた」と書かれています(2:15)。まず全部を私たちのために整え・準備した上で、私たち人をそこに置かれました。きれいに掃除され準備されたホテルの部屋に通されたのです。そして私たちを信頼されて、地を管理する責任も与えてくださいました(1:28)。また私たちの心配もされます(2:18)。神様と私たちは親子のような関係なのです。

 

私たちの神様がこのような方であることを知る時、生き方が変わります。しかしこの素晴らしい世界が、苦しみと邪悪に満ちた世界に見えることがあります。それは人が罪を犯すからです(2:16,3:17-)。しかしイエス様の十字架によって解決が与えられているのです。

 

私たちの祈り「神様、あなたが下さっている良いものに気づき、感謝することができますように」

 

関連聖書箇所
創世記  1:1 はじめに神は天と地とを創造された。

創世記  1:28 神は彼ら(人)を祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

創世記  1:31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。
創世記 2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。

創世記  2:18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。


「神様は、手を差し伸べてくださる」創世記3章 

 

神様は良いものを準備してくださいましたが、人は不従順のためにそれを壊してしまいました。不従順(罪)の結果は私達が思っているより広範囲です。

 

1. 罪の結果

罪によって、様々な関係が壊され歪められました(7節)。自分の姿を恥ずかしいと思うことは、自分を受け入れられないことです。自分自身との関係が歪められたのです(8節)。神様を避けることは、神様との関係が壊れたということです(16節)。人と人が支配する・される関係は、人と人との関係が歪められています(17-19節)。地が茨を生み労苦して働く必要があることは、神様が造られた被造物と私たちの関係が壊れたということです。

 

2. 差し伸べられる神様の手

しかし神様は私たちを見捨てる方ではありません。この壊れて歪んだ関係を修復し和解をもたらすため、不従順な私たちになおも手をのばされます(15節)。イエス様によってサタンを打ち砕く約束を与えてくださいました(19節)。からだを覆うために「毛皮を与えた(21節)」とありますが、そのためには動物を屠る必要があります。ここに贖いのための犠牲が暗示されています。

 

イエス様の十字架は、罪の贖いと神様との和解をもたらします。この和解は人と神様の関係に留まりません。自分自身を愛し受け入れること、人との関係が修復されることも神様がもたらす和解です。私たちは自分のどの部分にさらなる修復が必要でしょうか? 

 

私たちの祈り「十字架を感謝します。あなたが平和と和解をもたらしてくださる方であることを感謝します。」 

 

関連聖書箇所 創世記3章

 7-8節 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
 
 3:16-18節 次に女に言われた「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

 21節 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
 


「神のひとり子、私たちの主イエス様を信じます」 (ルカ1:46-55, ヨハネ3:16-17)

 

聖書に書かれている神様は、良いものを造られた方であることを見ました。それではイエス・キリストはどういう方でしょうか? 使徒信条には「神のひとり子、私たちの主イエス様を信じます」と書かれています。この意味を考えましょう。

 

 1. 神様は、ひとり子を与えるほど私たちを愛してくださる

「神のひとり子であるイエス様」を見ることは、

 (a)神様を見ることです~すなわちイエス様は神であるということを表しています(ヨハネ1:14)。

 (b)「ひとり子」とは「愛する子」です。私達は、ひとり子という言葉を口に出す度に神様の愛と十字架の業を覚えます。

[神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16口語訳聖書)]

 

2.イエスを「主」と告白する者は、イエスを主として歩む

イエス様の母マリヤは、イエス様がもたらす世界について歌いました(ルカ1章)。それは「新しい生き方」の世界です。

 

 51節) 主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
 52節) 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、
 53節) 飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。

 

すなわち

(a)傲慢が砕かれる~個人の心の変革(ルカ1:51)。

(b)人を差別したり、利用したりしない~他者との関わりの変革(ルカ1:52)。

(c)自分のためだけでなく、隣人愛のためにお金を使う~具体的な生活のあり方の変革(ルカ1:53)。

これらはイエス様を主として、神のあわれみに生きる生き方です

 

イエスを主と告白し、神の圧倒的な愛に感謝しつつ、イエス様を文字通り自分の「主人」として生活しましょう。信仰は信じることです、信じることにより生活が変わっていきます。私たちの生き方を変えてくださるイエス様に感謝します。

 

私たちの祈り「イエス様 あなたは私の主、私はあなたものです。わたしのたましいは、救い主であるあなたをあがめ、たたえます。」


「私たちのための十字架」 ヨハネ19 章16〜22 節, Iコリント15章3~6節

 

イエス様についてさらに学んでいきましょう。使徒信条はイエス様について「~ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり~」と書かれています。

 

1. ポンテオ・ピラトのもとで

イエス様は、「昔々、ある所に」いた架空の人物でなく、ピラトがローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督であった時代(紀元27~36年頃)に、エルサレムで十字架刑につけられた歴史上の人物です。イエス様は当時の最大の権威ローマ帝国のピラトにより十字架で死にましたが、よみがえられました。世のどんな権威も神様の前に立ちはだかることはできないのです。

 

2. 苦しみを受け、十字架につけられ

使徒信条は、十字架の事実のみを簡潔に告白します。しかし聖書には「私たちの罪のために死なれた(Iコリ15:3)」とその意味が記されています。私たちが「イエス様が十字架につけられたことを信じる」と告白するとは、イエス様の苦しみと十字架は自分と関係のある出来事、自分のためであると告白することです。

 

3. 死んで葬られ・・・よみがえり

私たちはいつか死ぬ存在です。しかしイエス様は私たちの先を進まれ、死に勝利されました。もはや私たちにとって死は恐れるべき事や、わからない事ではありません。イエス様のよみがえりは、私たちの罪の赦しの根拠であり、恐れのない人生を歩むための希望です。

 

私たちはイエス様の十字架に感謝します。十字架は勝利の約束です。十字架を仰ぐ時、私たちの罪が許されているという確信を持つことができます。この世のあらゆる力に打ち勝ったイエス様こそが私たちの主です。

 

私たちの祈り「イエス様 私の罪のために死んでくださった十字架の業を感謝します。」


「圧倒的な勝利者として生きる」 ローマ8章31~39節


使徒信条はイエス様について「そして全能の父である神の右に座しておられます」と続けます。イエス様は、十字架で私たちの罪のために死に葬られ、そして復活して天に上ったあと、神の右に座しておられます。「座る」とはすべき事を終えて休んでいる状態の印象を受けますが、そうではありません。


1.    世界を治めておられる方

「右に座る」とは、権威者の権威を実行する者の象徴です。イエス様はこの世界からいなくなってしまったのではなく、全能なる神のご支配・神様の御心を実行されているのです。私たちが「神の右に座しておられます」と告白する時、私たちとこの世界はイエス様の支配の元にあることを信じ、そのことを宣言しているのです。

 

2.    私たちのためにとりなしをされる方

ローマ8:34に「イエスキリストが神の右の座に着き、しかも私たちのためにとりなしていてくださるのです」とあります。私たちは多くの罪を犯します。また時に自責の念にかられます。しかしイエス様は、私たちの罪のために私たちをとりなして、守ってくださっているのです。また私たちがイエス様の名によって祈るとき、神様は聞いて下さいます。(ヨハネ11:42)


イエス様が神の右の座に着いておられるので、私たちが神様の愛から引き離されることはありません。時に自分を責めることがあったり、苦難があったり、危険に遭います。しかしイエス様のとりなしにより守られて、私たちは「勝利者」となることができるのです。(ローマ8:38) 

 

私たちの祈り 「イエス様がいつも私たちのためにとりなして下さっていることを感謝します。様々な困難がありますが、勝利を確信して歩むことができますように。」